剣禅一如
先月、ライアテア島にある古代からの祭殿Maraeに案内してもらった時のこと。
じりじりと照りつける日差しに我慢できずに、甘い汁に溢れたマンゴの木に向かおうと
したら、西アフリカはトーゴ生まれのフランス人で今はライアテア島でガイドを営む
エリック・ペレ氏が突然こう言った。
「ところで、俺は日本刀に興味があるんだ。侍の戦争の道具でもあるのだろうが、
日本刀の道を究めることはとてもピースなものなんだろう」
まさに不意打ちのような問いに、その2週間前の自分ならば、そのまま聞き流していた
かもしれない。が、そのちょうど1週間前に、横浜にある真言宗の寺院で知人を通じて、
紹介いただいた剣士である黒澤雄太さんの言葉が、思いもよらぬところで浮かぶ。
「真剣で斬っている時と、禅を組んでいる時の、自分の心持ちは、まったく同じ。
天空と大地、そこにいる他人とも一体であるような自由自在な境地になるのが、
僕の場合は剣禅一如しているのです」
異国での、ちょっとしたセレンティビティを経て、昨夜その横浜の真言密教の寺院での
道場開きにうかがった。
現世では、必ずしも必要とされていない日本刀だが、真剣を扱い、実際に斬ることの
意義に共感せずにいられなかった。見栄えや型、手っ取り早さに編重し、
本質が抜け落とされがちな今にあって、刀という斬る道具を実際に振り、
斬ることの重要さ。そして、日本人としてのアイデンティティを希求すること。
そんなお話をうかがったが、しかしながら、決して頑なになることもなく、
他の流儀や選択肢にも敬意をもって接している黒澤雄太さんは、本当にやわらかな方だ。
日本武徳院試斬居合道の道場開きにて。剣士 黒澤雄太 師範による試斬
大日如来。曼荼羅。鎧兜。
- 2007.11.11
comments
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私の習っている合気道の師範が同時に居合道も教えていて、時折私も道場で居合刀を振っています。
剣にも呼吸法があってとても奥深いです。
natoriさん>
そうですね。私は、自分の体験としたことは、まったくないのですが、黒澤さんのお話を伺って、本当に奥深く、かつ、私たちの文化や精神性と深くつながりあっていることも感じられました。
道具の基本は、人の身体を機能を助長させるものなんでしょうが、剣ほど究極なものはないですね。
また、お話しましょう。
三昧の境地ね
(体育の先生がS大壮の挨拶で毎年使い回していた言葉だわね)
さへさん>
三昧の境地、それもあったね!思い出しました。
浩然の気を養うことにも通ずるのでは。