vol.2 永井 巧さん<2>Photo album

これまでの人生が、だんだんとつながってきた

「”ラッキー”だな。
そのときはつながっていると思わなかったけど、振り返ればつながっていた。
コンセプトを定めてやっていたわけじゃないけれど、今は”ギフト”みたいな形で、チャンスをもらっている」
BEACH HAYAMAでの仕事をはじめ、今現在の自分をとりまく環境、
海とのかかわり方について伝えること、そして文章で表現すること・・・・。

20代のころから今に至るまでの話を終えたとき、
何かに気づいたように永井くんの口から飛び出したのは、そんな言葉でした。

「学生時代、突然ソマリアに行ったり、大学を卒業しても就職せずにヨットに乗りこんだり・・・、
人からは”好き勝手やってるね”と言われて当然だったし、
自分でも、なんで、こんなに色んなことがやりたいのか、説明できなかったし、
でも、今やっとそれぞれがつながってきたのかもしれない」

自然の中にいることが大好きで、
その入り口である海の楽しみを多くの人に知ってもらいたい、
人と海が関わる環境を調えるのがライフワークだと思う・・・そう語る永井君。
終点の見えない迷路を直感にしたがって進んでみたら、
行き止まりもあり、同じところに戻ってきたいたりもあったり、
でも、ひとまず行きたかった方向にいることが分かった・・・。
そんなところなのかもしれない。

まずは、その半生を写真で見てみましょう。

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1971年6月13日 東京で三人兄弟の長男として生まれる。


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3歳から7歳までを、ブラジルで育つ。 最初の海の記憶は大西洋から。

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今よりも大人びた表情の少年時代。好奇心と正義感は昔から強そう。


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大学3年のときに国連の平和維持活動のボランティアとしてソマリアへ。
この経験が、後に人生の方向を変える大きなきっかけに。
(期待と不安の混ざった初々しい感じ!!そして、細い!!髪が!!)

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20代半ば。大学卒業後、就職よりもさらなる経験を求め、でヨットの回航クルーとして
ミクロネシアで船に乗り込む。
寝る場所と食事が提供されるのが条件。
顔つきが、だんだん野生的になってきた。
今を匂わせる何かが、この頃に宿ったのだろうか。

BEACH HAYAMAの永井 巧BLOG

ソマリア、タヒチ、そして日本、
20代からの経験と、そのとき考えたこととは?

大学時代はライフセービングの活動に参加。
そこで海だけでなく、町中でも何ができるのかを含めさまざまなことを教わった。
活動の中で、海での事故を目の当たりにし、「命」というものへの考え方が変わる。
1990年のLA大地震でその意識はさらに高まり、「いろんなものを見てみたい」という好奇心、
「日本の若者に世界の姿を見せたい」というジャーナリズムへの興味が、
1992年、彼をソマリアへと導いていった。

内戦が続き、無政府状態の混沌とした国。
それは、想像を超える世界だった。
心に残る強烈な印象は、現地で見たあまりにも悲惨な状況。
そんな中にありながらも消えずに灯り続ける、小さな希望の光。

明日の命が約束されていない世界に生きながらも、
好奇心に輝く瞳で「日本はどこ?」と話しかけてくる子供たち。
石ころひとつでサッカーが始まり、キャンプ中の子供たちが集まってくる。
無政府状態の中、社会をよくしようと勉強する若者。
英字新聞の切れ端を大事にもっていて、英語を話せる人を見つけると一生懸命聞いて覚える姿。

戦争の中、混沌の中に希望を失わない人がいるんだという事実がショックだった。
そして世の中の構造が見えてきた。豊かで平和な国とひずみの集まった国。
やるせない気持ちの一方で、コミュニティの重要性に気づいた。
情勢不安は、疑いや怒りを生み、信頼関係が崩れ、地域社会が安全を守れない場になるのだと。

ソマリアから帰国後、日本の世の中があまりにも空虚で偽善に見えた。
自分自身がそのまま、素知らぬ顔で大人になるのを拒否したくなった。

ソマリアからの帰国後、日本での就職へ疑問をもち、
流れのままにハワイへ、そしてタヒチへと渡り真珠養殖所で働いたりもした。
のどかなタヒチの離島でのくらしは、海にどっぷり浸れて充実していたにもかかわらず、
ホームシックと日本の社会から逃げてきたような気持ちとで、
日本に戻ることを決意。

「海の最果てにいるのに、市場の原理は同じ、
一日に決まった時間を働いて、生産性を上げることなんだなぁ」
結局、どこに行っても逃げ場はない、
未開の地に行けば自分に合う場所が見つかるかと思ったけど、
フィットする舞台が用意されているわけではない、
自分が変わらなくては、と観念した。

帰国後は藤沢に住み、一年半はスーツを着て東京での会社勤めもしてみた。

そんな日々にも、終止符を打つ転機が訪れる。
ライフセービング時代の仲間からのアウトリガーカヌークラブ設立の誘いだった。
タヒチやハワイで見たカヌーのある暮らし。それが日本でできるなら・・・。
当初は趣味だったアウトリガーカヌーが、1年後の2000年にはそれどころではなくなった。
都内に通っている場合ではなくなり、鎌倉のアウトドアカンパニーでパートタイムの仕事を始める。
ライフセービングは鵠沼、カヌーは葉山と、生活の基盤が湘南に定まった。
海と関わることが仕事のメインとなり、日本の各地にライフガードを置く仕事に携わり、
サーフィンなどの大会でのウォーターパトロールやその関連の話を記事にする仕事、
FM局の波情報の放送作家、サーフィン雑誌の編集やライターの仕事・・・・と新たな展開に。

さらに、アウトドアウエアの会社での海をコンセプトにしたストアの立ち上げ、サーフィンだけでなく海の遊び、スタイル、環境的なことを、もっと考える空間を作るというコンセプトでオープンするというチャンスを授かった。

そして、「海の楽しみを伝えたい」、「人と海の環境を調えることをライフワークにしたい」、
「自分自身がカヌーレースに出たい」、「伝えるという仕事がしたい」・・・。
無意識のうちに夢に描いていた職業が、BEACH HAYAMAで形になった。

どうして海にこだわるのか。
今自分たちが住んでる環境では、土地は大抵だれかのものであって、囲われている。
でも海はだれでも出入りできる公の場所。誰に対してもフェアな感じがするから。
海の中はすぐに大自然とつながっていて、変化もあるし、
一歩入ると、大きな自然の流れを感じることができる。
その人が偉いとか誰だとかに関係なく、経験を共有できる場所でもある。

戦時下のソマリアでは、まったく切り離せるという訳ではないが、
海はフェアな場所だと思った。ボディサーフィンをして、子供たちが無邪気に喜んでいた。

楽しみや喜びを共有できることが、コミュニケーションの始まり。
そういう意味で、BEACH HAYAMAを通して、海や山を体験して、
同じ感覚をもち、深く自然を共有した人たちとのフレンドシップ、
そこから生まれるコミュニティの大切さを感じる。

コミュニティが崩壊しつつあるソマリアと
コミュニティで助け合うタヒチ、相反する生活を垣間見たことで、
日本で、この葉山で広がっていく人と人のつながりを嬉しく感じる。

これからは、自分が通ってきた道を生かして、
より若い世代が、もっと元気よく海にもまれるお手伝いができたらいい!

そう言いながら目をキラキラと輝かせる永井君。
冒頭の言葉につながっていく。